「太助ちゃんって嫌いな食べ物あるでしょ?」

いつものように窓際の席で外を眺めている太助の横で香奈ちゃんが熱心に太助に話しかけている。太助はというとこれまたいつものペースで「ふむ」なんて頷いている。マスターとして僕はそこに混ざることはできないが、お客様がそうやって微笑んでいるものを見るのはカフェを開いてよかったと思うこと一番の瞬間だったりもする。

「ふむじゃなくてー!何が嫌いか教えてくれないの?」

香奈ちゃんの質問に太助はゆっくりと顔を上げ、「ふむ」と言いながら入り口のすぐ傍にある鉢植えを指差した。(いや、正確には指ではなかったと思うが)

「あはは。太助ちゃん、鉢植えも食べるの?」

僕にはすぐにそれがアレだと気づいてちょっと吹き出してしまったが、香奈ちゃんはまだその存在を知らないようなので静かに見守ることにした。太助がソレを嫌いになったのにはいろいろと経緯があるのだが、おそらくいま太助が示しているものは香奈ちゃんの質問の答えにはあっていないと思う。だって、ソレは食べ物じゃないから。

「おぬし、天敵という言葉を知っておるか?」

いぶし銀の侠客のような鋭い眼光とともに、太助は香奈ちゃんに質問を返した。

「そ、そりゃ、天敵って言葉は知ってるけど…、それがどうしたの?」

「それじゃ…」

太助の答えに香奈ちゃんはソレがいる鉢植えを凝視した。そして席を立つと、鉢植えまで歩いてゆき、腰を下ろして手を伸ばした。

「あ、あぶない!」

僕は思わず香奈ちゃんに向かって大きな声を出していた。「え?」と振り向いた香奈ちゃんだったが、その瞬間、「痛ッ!」という声とともに手を引っ込めた。僕はすぐに香奈ちゃんの傍に駆け寄る。

「大丈夫?怪我してへん?」

香奈ちゃんの手の甲は少しだけ赤くなっていたが血が出ているようすはなかった。香奈ちゃんは小さく頷いたが、それでもいまだに状況がよくわかっていない様子で目を丸くしたまま固まっていた。太助はしばらくこっちのほうを心配そうに見ていたが、大丈夫なことを確認すると、ほれみたことかと再び窓の外へと視線をやってコーヒーをひとすすりした。

「な、な、なんなんですか?マスター」

動揺を隠せない香奈ちゃんをとりあえず落ち着かせるために、カウンターに座らせて窓際から飲みかけのコーヒーを持ってきた。

「はい、落ち着いてな」

ひとくち飲んだあと、ようやく落ち着いたのか、香奈ちゃんはしずかに僕のほうを見てもう一度「驚きました」と吐露した。これはたぶん説明してあげなきゃ後味悪いだろうなと判断した僕はソレと太助の関係について話さなきゃなと思った。

「とりあえず、驚かせてゴメンな。香奈ちゃんを驚かせたアレな、"ヒトデナシ"っていう梨の苗木なんよ。スリランカの山奥で売ってたのを一苦労して手に入れてきた代物なんやけども」

そこまで言うと香奈ちゃんが口を挟んできた。

「梨ってことは、やっぱりアレ、植物ですよね?なんで動くんですか?」

もっともな疑問だ。が、このカフェがどういう場所かを香奈ちゃんはすっかり忘れている。

「アレな、自分に触れようとするものに対して攻撃をすることのできる珍しい植物なんよ。食虫植物とか、あるやろ?あれのもっと強いやつだと思えばええよ。最後には日本の梨よりもずっと大きな実をつけるらしいし、って、まぁ、その実を採るのに一苦労も二苦労もするらしいねんけどね」

そこまで言うと香奈ちゃんはあの植物が積極的に動いて攻撃を加えるものではないことを理解したようだ。

「で、なんでそのヒトデナシのことを太助ちゃんは天敵って呼ぶんですか?」

「あぁ、それはね、まずは名前。太助って、変に仁義を貫く部分あるやん?そこに"ヒトデナシ"って名前だから、それだけでまず対抗心燃やしちゃって。あとは、太助が普段歩く高さが、ちょうどアレの高さと同じくらいで、店に持ってきてすぐの頃はちょくちょく攻撃されててんよ」

こちらのほうを気にしてチラチラと見ていた太助だったが、香奈ちゃんが太助のほうを見ると、驚き慌てて窓の外に視線を移した。その姿に香奈ちゃんはぷっと吹き出して笑顔になった。

「やっぱ太助ちゃんってかわいいですね」

香奈ちゃんの笑顔を見た僕も思わず笑顔になった。

「あ、でも、嫌いな食べ物って聞いたのに、なんで天敵を答えたんでしょうね?」

その理由はなんとなくわかった。

「それはたぶん…、いちばん最初に僕が太助に"梨を仕入れてきたよ"って教えたからだと思いますよ。普通の梨だと思ってたのにアレだったから、太助、ヘソ曲げてしもてなぁ…」

香奈ちゃんはまた笑った。そして僕も笑った。太助はバツが悪いのかピクリとも動かず窓の外を眺めていた。

ここは『カフェ・サンチャルネスト』。
ちょっと落ち着いた空間に、非日常が宿る場所。

To Be Continued ...
ここ数日、サンチャルネストは店を閉めていた。マスターからは何も聞いていなかったし、急に"しばらく休業します"とだけ貼り紙が残されていて私はひどくショックを受けた。それが…、1ヶ月とちょっと経って、私の生活からもサンチャルネストが薄らいできたかという寒い冬の日、またお店から光がこぼれていた。一瞬、状況を理解することができなかった私が店のドアに向かって走り出すまでには、20秒くらいの空白の時間があったようにも思える。

「マスター!」

ドアを開くなり私はカウンターに向かって大きな声を出した。

「あぁ、香奈ちゃん。おひさしぶり」

マスターは何事もなかったように微笑み、洗い終わったばかりのコップを拭いていた。私はカウンターまで駆け寄り椅子に飛び乗ると、自分が息を切らしていることにはじめて気づいた。

「そんなに走ってどうしたん?ほら、とりあえずお水飲んで」

差し出してくれた水をひと飲みにして、私はあいかわらずあがったままの息でマスターのほうを向いた。

「はぁはぁ…ほら、マスター、急に居なく・・・なっちゃってたでしょ?心配してたんですよ」

私の訴えにマスターは長細い目がほんとに丸くなるんじゃないかというくらいの驚きの表情を浮かべて

「うわ、心配させてしもたんかぁ。ごめんなぁ。ちょっと海外に出かけてただけなんよ。てっきり話したもんやと思ってたけど、言いそびれてたんやね。ほんまにごめんなさい」

と答えてくれた。

「このお店、大好きなんですから閉めたりしないでくださいね」

あまりにも本心で話してしまったことに気づいてちょっとだけ照れた。マスターからすると私はワンオブお客様でしかないというのに。

「ほんま、そんなこと言うてくれるん香奈ちゃんだけやわ。ほら、見てみ、太助も喜んでる」

窓際を見ると太助が外を見ながら尻尾だけを2、3度パタパタと振ってくれた。

「それにしても、どこに行ってらっしゃったんですか?もしかして、太助ちゃんも一緒に?」

私が聞くと、マスターは口元をあげてちょっと意地悪な表情をした。

「いろいろ回ってきたよ。1ヶ月あったしね。時々こうやってフラっと出かけて、新しいもの探してくることにしてるんよ」

そう答えたマスターは最後に「ま、何を見てきたかについてはまたゆっくり話してあげるから安心して」と付け加えた。

「じゃ、1ヵ月分の気持ちをこめたコーヒーでも入れてもらおうかな」

そう注文するとマスターはいつものような笑顔で「あいよ!」とカウンターの奥にへと入っていった。これもまたいつもの風景。

ここは『カフェ・サンチャルネスト』。
ちょっと落ち着いた空間に、非日常が宿る場所。
そして、戻ってきた私の一番安らげる場所。

To Be Continued ...
「お、香奈ちゃん、いらっしゃーい」

店に入るや否や自分の名前を呼ばれて目を丸くしてマスターのほうを向いた。マスターはというと「ん?」といったような表情をしてにこやかに微笑んでいる。どうやら相当機嫌がいいらしい。けれど私にはものすごく疑問に思うことがあった。

「あれ?マスターに私の名前言ったことありましたっけ?」

疑問をそのまま投げかけると、マスターは「あ、そっか」と言うと

「前に太助に名前聞かれて答えたでしょう?あ、太助ってアイツのことです」

と続けながら、一番窓際の日の差し込む席に座って器用にマグカップで何かを飲んでいるん猫のほうをアゴで指した。彼に何度名前を聞いても「名前はまだない」なんて答えてたのに、ちゃんと「太助」という名前があったなんて初耳だ。たしかに太助ちゃん(次からはそう呼ぼうと決めた)には「おぬし名はなんと言う?」と聞かれて答えた記憶があった。太助ちゃんに言うとマスターにも伝わるということか。

「でもどうしたんですか、マスター?今日はやたらとごきげんじゃないですか」

私の質問にマスターはさらに口元をあげた。

「わかりますか?あはは、こりゃあかんな。いつもクールが売りやのに。んふふ。これ、何かわかりますか?」

そういうとマスターはカウンターの下から小瓶を取り出した。中にはコーヒー豆のような粒がいくつか詰まっていた。

「なんですか?コーヒー豆みたいな感じですけど」

「そう思うでしょ?そりゃココ、カフェやからね、コーヒー豆みたいに見えるかもしれんけど、ちょっとちゃうんですよ。こんなふうにして、ほら、覗いてみてくれます?」

マスターは小瓶の周りが暗くなるように両手で包み込み、指の隙間から私に中を覗かせた。

「あ…。光ってる…」

驚いてマスターのほうを見ると嬉しそうに口元をあげて微笑むいつものマスターの顔があった。

「これね、星の欠片なんですよ。去年手に入れられへんかったから今年こそって思ってたんでもう嬉しくてね」

"星の欠片"というものがあることすら知らなかった私にとってはもう驚きを通り越してわけがわからなかった。どういうルートでこんなものがマスターの手に渡ってくるんだろうか。

「しかもね、コレのすごいとこは豆挽くときにちょっとだけ混ぜてやったらコーヒーの味が格段によくなるってとこですわ。ちなみにいま、あそこで太助が嬉しそうに飲んでるのもコレが入ったやつなんですよ」

窓際で外を向いて座っていた太助ちゃんはもう飲み終わったのか、外を歩く人を眺めながら肉球を舐めていた。店に私以外の人がいないことをいいことに私は太助ちゃんに声をかけた。

「太助ちゃーん、星の欠片入りコーヒー、おいしかった?」

太助ちゃんは声を出すかわりにシッポを椅子の背もたれの上でパタパタと振ってみせた。

「香奈ちゃんは常連さんやから、特別に普通のホットの値段でええよ」

マスターももう私のために星の欠片入りコーヒーを淹れる気マンマンのようだ。

「あはは。ありがとうございます。喜んでいただきますね」

私は微笑んでそう頼んだ。小瓶から粒をひとつ取り出して、豆の中に混ぜる。暗い中で光っていないとさきほどのような星らしさは全然感じられない。

ほどなくして私の前に一杯のコーヒーが出された。

「季節限定商品"ピノキオ"ですわ、どうぞ」

ピノキオと名づけられたそのコーヒーは私が今まで口にしたどのコーヒーよりも私の口に合っているような気がした。それが星の欠片の為せる技なのだろうか。

「すっごいおいしい!でもなんで"ピノキオ"なんですか?」

私がそう聞くとマスターは「単純なことですよ」と微笑みながら太助ちゃんが飲んだ後のマグカップを回収するためにカウンターから出ていってしまった。太助ちゃんはというとコーヒーに満足したのか、マスターに「うむ」とだけ言ってそのままその席で目を閉じてしまった。

「なにが『うむ』やねん!」

マスターは苦笑いしながらもあえてその席から太助ちゃんをどかせようとはしなかった。
店の中にはピノキオの香りが溢れている。

ここは『カフェ・サンチャルネスト』。
ちょっと落ち着いた空間に、非日常が宿る場所。

To Be Continued ...
いつものようにドアを開けると、中はいつもとは少し違う雰囲気が漂っていた。見た感じはいつもとなんら変わりがない、ように見える。けれど、何かが違うことははっきりとわかった。

「・・・ねぇ、マスター?今日、なんか雰囲気ちがくない?」

何事もないかのようにカウンターの奥でコーヒーコップを拭いているマスターに私は思わず聞いてしまった。

「ん?あぁ、今日は休養日なんよ、店中の椅子の」

マスターの言っていることの意味がよくわからなくて私は「え?」と聞き返す。

「この店の椅子はな、時々休ましたらへんかったら機嫌悪うしよるさかい、毎週第2水曜日は椅子の休養日にしたってるんやわ」

椅子の休養日とはどういう意味なんだろうか。ということは、私が今座ってる椅子も本当は休養日なのに私が座ってしまったせいで働かざるをえなくなってしまったということだろうか。

「あ、その椅子は大丈夫やよ。当直やから」

当直と言うことは今月は休みなしだということか。私はあらためて店の中を見渡してみた。見た目は本当にいつもと変わらない落ち着いた雰囲気だけれど、たしかにわかった。いつもと比べて店全体にやる気が見られない。客を迎え入れようというような気配が見当たらない。

「へぇ。椅子もやる気のあるなしでお店の気配がこんなに変わるんだね」

「せやろ?だいたいの店は椅子に満足な休みをやってへんみたいやから、入った瞬間にわかるんや。2回目3回目と行くかどうか決めるのはそこやってこと、全然わかってへんヤツ多いわな」

マスターはちょっと得意げにそう言うと、拭いていたコーヒーカップを棚に戻した。私はあらためて店の椅子に目を向ける。

「お店がお休みの日以外にも休みをあげるなんて、マスターらしいね」

「なに言うてるねん。店の主人としてやるべきことをやってるだけや」

照れ隠しかどうかはわからないが大げさな動作でメニューを私の前に差し出しながらマスターはニッコリと微笑んだ。

「さて、なんにしましょ?」

ふっと気のきいた言葉が浮かんだので私はとっさに答えた。

「じゃ、マスターにも休憩させてあげる。 冷たいミルクで」

私の言葉に再び大げさなリアクションをしたマスターは笑いながら「そんなん言わんと。カフェなんやからなんかコーヒー頼んでーや」と茶化した。

休憩する椅子もちょっとだけ笑った気がした。そんな午後。

ここは『カフェ・サンチャルネスト』。
ちょっと落ち着いた空間に、非日常が宿る場所。

To Be Continued ...
僕の前に置いてあるテレビが、さっきからずっと天気予報を流している。もうかれこれ30分くらいになるだろうか。天気予報といっても同じ内容がずっと流れているわけではない。どこの言葉かもわからないような言語で語られる天気予報まであるし、日付だって何年も前のものから未来のものまで存在する。つい最近にテレビCMだけが10分間流れ続けるというものを見たことがあったが、それ以上に違和感のある映像だった。マスターはそれをなんとも思っていないかのように、鼻歌を歌いながら洗ったばかりのコーヒーカップを拭いている。

「ねぇ、マスター?」

あまりの違和感に耐え切れなくなって僕はマスターに声をかけた。

「ん?どうしはりました?」

マスターは拭いていたコーヒーカップを置き、カウンターの奥から出てきた。マスターの関西弁はお笑いタレントが使っている関西弁よりもずっと柔らかい感じがする。マスターいわく「京都の出身やからとちゃいますか?」だそうだ。

「このテレビ、さっきから天気予報ばっかり流れてるんですけど、これはこういうビデオか何かなんですか?」

僕の質問にマスターはちょっと困ったように頭を掻きながら答えた。

「こんなん言うんも気が引けるんですけど、このテレビ、私が拾ってきたんですわ。雨の日にね、なんかめっちゃ寂しそうに捨てられとったんでつい…。拾ってきてちょっと直してやったら、どこから集めてくるんか知らんけど、こんなふうに天気予報ばっかり流すようになったんですわ。雨の中に捨てられたことがよっぽどショックやったんやろうなぁ」

よくよく聞けば、雨の予報が流れるときは少しだけボリュームが下がる。下がる、というよりは声が低くなる。あからさまに雨の予報を嫌がってるのがわかって、ちょっと微笑んでしまう。

「マスター、明日、晴れますかね?」

残っていたコーヒーを飲み干しながらカウンターの奥に戻ろうとしているマスターの背中に向かって聞いた。

「さぁね、テレビに聞いておくれ」

マスターの表情は見えなかったが、たぶんいつものように目を細めて優しく微笑んでいるんだろうなと思った。

ここは『カフェ・サンチャルネスト』。
ちょっと落ち着いた空間に、非日常が宿る場所。

To Be Continued ...
フォークにからめたパスタを口に運ぼうとした姿勢のままで、私は固まってしまった。このカフェにはいろんなお客さんが来るとマスターから聞いてはいたが、まさか目の前に山高帽をかぶったネコが座っているなんて想像の域をはるかに超えていた。重力に耐えられなくなったパスタが一本、フォークからツルリとほどけてオリーブオイルを私の顔へと飛ばした。それでふとわれに返った私は、まだフォークに絡まっているパスタをとりあえず口へと運んだ。もちろん、視線は山高帽のネコに釘付けだ。ネコはすました顔してラザニアを食べている。肉球の間に上手にフォークをはさみ、小さく分けたラザニアを口へと運んでいる。

「おぬし…」

こちらに目を向けることもなく、ネコが声をだした。客は私以外にも何組かいたのだが、あきらかに私に向けてその声は発せられていた。ほおばったラザニアを飲み込むのに予想以上に時間がかかったのか、くちゃくちゃと口を動かしながら、ゆっくりとネコがこちらのほうを向いた。その縦長の目の中に、私が映っているのがわかった。

「おぬし、ワシに何か言いたいことでもあるのか?」

日本語を話すネコが増えてきたというのは一昨日に見たニュースで話題になっていたが、全国に存在するネコのほんの一握りのみであるため、遭遇するのは非常に珍しいことだろうとたしか言っていた。が、その一握りが今、目の前にいるのだ。

「え、い、いえ、とても器用に食べ、あ、いや、言葉を話せるネコさんにお会いしたのは初めてなもので…、つい……、ご、ごめんなさい…」

私はネコを見下す発言にだけはならないように必死に言葉を選びながら答えた。ネコは何か言いたそうな表情をしたが、さっき食べたラザニアの欠片が歯に詰まっているのか、肉球で口のあたりをゴシゴシしはじめた。私はその間、どうしていいのかもわからず、ゴシゴシと肉球を動かすネコをぼんやりと見た。やがてムズムズ感がマシになったのか、ネコはまた凛々しい表情に戻って私のほうを見た。

「まぁ、よい。時におぬし、ワシを見てまず何を思うた?」

この言葉遣いはどこで覚えたものなんだろうと気になって仕方なかったが、それを聞くわけにもいかないうえに、難問を突きつけられた私はしばらく黙り込んでしまった。

「まぁ、よい。時におぬし、この店のことをどう思うておる?」

さすがはネコというべきなのだろうか、答えなくても勝手に話が変わっていく。これなら答えられると思った私は笑顔で素直に答えることにした。

「すごい好きですよ、雰囲気もいいし、マスターもいい人だし、コーヒーもおいしいし。今日久しぶりに来たけど、やっぱり大好きです」

ネコはその答えを聞くと、山高帽をかぶりなおして再びラザニアに目を向けた。そして、こちらに視線を向けないままに口を開いた。

「まぁ、よい。時におぬし、そのパスタはもう残すのか?」

そうだった。パスタを食べかけたままだったことを思い出された。

「あ、食べます食べます」

そう答えると私はネコから視線をはずし、再びパスタをフォークにからめようとした。くるくるとフォークを回して、口に運ぼうとしたとき、前方よりまた声を聞こえてきた。前を向かなくちゃいけないのかとも思ったが、とりあえずパスタを口に入れてからにしようと思った。

「まぁ、よい。ときにおぬし、んぎゅ」

よくわからない終わり方にフォークをくわえたまま私は前方に視線を送った。そこには山高帽の上からネコの頭を押さえつける店のマスターがいた。

「こら、またお前はお客さんに迷惑かけてるんか?おとなしく食べろっていつもいうてるやろ?」

ネコは急に小さくなって、目じりを下げた。

「すみませんねぇ、これ、うちのネコなんですわ。最近、何を思ったのか時代劇ばかり見てるなぁって思ったら、急にしゃべるようになってね。目を離したら勝手にお客さんに話しかけるようになってしもて…。困ったもんです。ほんま、すみませんねぇ」

マスターに首をつままれて店の奥へと連れて行かれるネコがマスターに向かって「かたじけない」と謝っていた。私はあっけにとられて何も言えないまま、手に持っていたフォークをあやうく落としそうになった。店の天井で回る換気扇の音で我に返るまでには、ゆうに1分はあったと思う。

ここは『カフェ・サンチャルネスト』。
ちょっと落ち着いた空間に、非日常が宿る場所。

To Be Continued ...
雨上がりの晴れた空が好きだ。空気中に浮かんでいる小さな塵を雨が洗い流してくれるせいで、いつもは見えないずっとずっと遠い向こうも見えるような気がするから。だから僕はよく、雨上がりに出かける。河川敷を歩いたりしながら、雨上がりでなければ見つけられないものを探しに行く。

「ほんと、好きだよね、雨は嫌いなくせに」

雨上がりの河川敷を歩きながら隣を歩いていた美紀がぼやいた。付き合いだした頃はヒールの高い靴を好んで履いていた美紀だったが、僕がこんな変な癖をもっているせいで、いつのまにかジーンズとスニーカーが定着していた。でもそんな美紀のほうが好きだ。美紀は美紀で僕と付き合いだしてから写真を撮るという趣味を持った。なんでも、僕が雨上がりに空を見ているところの写真を撮りたいと思ったのが始まりらしい。

カシャッ、カシャッと絶え間なく聞こえてくるBGMもいつしか空を見るときの習慣となった。空を遠い目で見上げる男とそれを撮りまくる女。見た目には異様な光景かもしれないが、たぶんそれが僕らのコミュニケーション。

「あ、飛行機雲!」

嬉しそうにそう叫ぶと、美紀はカメラを空へと向けた。飛行機雲に美紀のレンズを奪われたことにちょっと嫉妬しながら、僕は目の前にある水溜りを飛び越えた。水溜りには空が映り、僕は空を飛び越えたような気持ちになる。飛行機雲は空のずっと向こうから、たぶん反対側のずっと向こうまで続いていくんだろう。

Fin
大学に入って2年半が経とうとしている。高校の頃から付き合い続けている彼女との遠距離恋愛は、何度も危機を迎えながらもなんとか続いているという状態だ。寂しさをまぎらわすためにと大学入学とともに始めたギターは、ギターサークルで練習を重ねたこともあり、ずいぶんと上達してきたと思える。

「藤田先輩、来週の日曜日ってお暇ですか?」

いつものように文学部の非常階段に座り練習をしていた僕に、いつのまにか前に立っていた後輩の持田悠子が予定を聞いてきた。どうせサークルで集まってなんかしましょうというようなお誘いだろう。これまでも2ヶ月に一度はそんなふうにしてサークルで集まってバカ騒ぎをしてきた。

「あいてるけど、また飲み会でもしましょうって感じ?」

僕は軽くギターの弦を弾きながら微笑むように答えた。しかし、その瞬間、持田はちょっと困ったような顔をして、小さな声で答えた。

「え、あ、いや、ちょっと違うんです。ギター、新しいの買おうかなって思ったんで、一緒に見にいってもらえないかなって思って…」

意外だった。ギターを買うだけなら、女の先輩だってたくさんいるというのに。僕は照れ隠しに弦をつまんでピンッという音を何度も立てては止めながら、自分に冷静になるように言い聞かせていた。

「いいけど、俺でいいの?そんな持田に教えられるような知識があるとも言いがたいけど…」

OKというニュアンスを出したものの、どこか煮えきらずモゴモゴと言い訳を続けようとする僕の言葉を持田が強い口調でさえぎった。

「先輩がいいんです」

あまりにストレートな言葉を投げつけられて、僕は言葉を失った。走り去っていった持田が曲がった角の向こうから、後輩の女の子たちの声だと思われるはしゃぎ声が聞こえてきた。

僕は誰に向けるでもなく小さく微笑んだ。彼女への罪悪感は不思議となかった。手にしたギターを抱えなおすと、僕は何事もなかったかのように再び練習を始めた。

「"未来はいつだって未定"か…」

昨日買った詩集に書いていた言葉を思い出した。

Fin
よく晴れた夏の日の朝、起きたら僕はロビンになっていた。ロビンというのは僕の家で飼っていた犬の名前だ。前足を見た。後ろ足も見た。たしかに犬だった。意識は人間のままだったが、どんな言葉も"ワン"という音になった。唖然として小さく"ワンワン"と鳴いている僕に、縁側の戸をあけて駆け寄ってきた妹の瑞樹が声をかけた。

「ロビン! 散歩行くよー!」

瑞樹は僕の首についていた紐を掴んで、強引に犬小屋から引っ張り出した。

『イタイ!』

口に出したつもりが勢いよく"ワン!"と吼えただけの僕を瑞樹は何を勘違いしたのか、よろこんでいるようにとらえたらしい。上機嫌で歩く速度をあげていく。4本足で歩くのなんて初めての僕は、どうしてもうまく走れず、瑞樹にも追いつけない。

「あれ?あんた、今日はえらい遅いわねぇ。元気ないの?」

何も知らない瑞樹は僕のほうを心配そうに眺める。といっても、必死に歩いている僕はそんなこと気にも留めていないのだが。

「う~ん、お母さんに言っておいたほうがいいかしら…」

つぶやく瑞樹の横でヘタヘタと歩く僕は、たぶん右から見ても左から見ても"犬"なんだろう。


散歩を終えると僕はひとまず犬小屋にはいって、今後のことを考えた。まずは僕が犬であることを伝えないといけない。まずは…

『あれ?』

そこまで考えて疑問に思ったことがあった。僕がロビンになったということは、もともとの僕の身体はどうなってしまったんだろうか?僕は犬小屋から飛びだした。首から繋がっている紐が許す限り家に近づく。

「ワン!ワンッ!!」

家の中を見せてくれと叫んだつもりだが、どう考えてもただ吼えただけになった。それでも何かは通じたらしく、瑞樹が戸のところまでやってきた。

「さっきまで元気なかったのに、今はまた急に元気ね」

そう言った瑞樹の後ろに僕ははっきりと見てしまった。朝食をとる家族のテーブルの一席に、たしかに僕がいた。

「ワン!ワンッ!」

どうなってるんだ!お前は誰なんだ!そう思って吼えまくると、思いが通じたのか家の中にいる人間の僕がこっちを見た。そしてそいつは驚いた顔をして口を開いた。

「ワン」

中身はあきらかにロビンだった。

「もう~、孝之ったらまだふざけてるの? いい加減にしなさいよー」

母親が笑いながらロビンをたしなめる。傍目に見れば何気ない平日の朝。世界がぐるぐる回り、僕はうなだれるようにその場にふせこんだ。

Fin
玄関の扉を開けると秋の風が頬をなでた。このところ夏と秋の間を季節が行ったり来たりしていたので、もしかしたらとても暑い日になるんじゃないかと気をもんでいたが、どうやら天気の神様はアタシに微笑んでくれたらしい。

「じゃ、行ってくるね~!」

とりあえず扉を閉めて、家の中に向かって大きな声を出す。台所で父親の朝ごはんの準備をしていた母親がエプロンで手を拭きながら玄関まで出てきた。

「あんまり無理するんじゃないよ、いつでも帰ってきていいんだから」

母親は昨日の夜にもアタシに言った言葉をもう一度投げかけてくる。

「わかってるって。おばさんに迷惑かけないようにするから」

あんまりここに長くいると母親に泣きつかれてしまいそうだ。"家を出て東京に行きたい"と初めて母親に言ったときのことを思い出した。この街は嫌いではないが、この街から出たことがないということがアタシにとってのコンプレックスになっていた。幸い親戚が千葉にいたこともあり、アタシは上京を決めた。

「たまには帰ってくるようにするよ。それにケータイがあるんだから、いつだって連絡取れるんだし。あ、バスの時間…」

いまだに心配そうな母親に背を向けると、アタシは再び玄関の扉を開けた。さっきと同じ秋の風は、もう一度アタシの頬をなでる。

「よっし!」

空高くにかかる薄い雲を見上げると、アタシの足はどんどん軽くなった。羽が生えてこのまま飛べそうな感じは、きっと期待によるものだろう。一本前のバスがアタシの横を通り過ぎていく。今はまだこの街にいるけれど、心だけはずっと先の、東京にいるアタシのものになっていた。

Fin