「電車、行っちゃったね」

「うん、電車行っちゃったね」

二人の間にはなんともいえない乾いた空気が漂っていた。親に内緒で旅行に行こうと言い出したのは、奈緒子のほうだった。1年半付き合ってようやくやってきた、二人きりの旅行のチャンス。もう二人とも成人しているというのに、これまでないというほうが不思議だとみんなに言われてきた。もちろん僕のほうに断る理由などなかった。

僕らがやってきたのは、観光地とは少し離れた田舎町。互いに、世の中の流れに従うのは好きなほうではないちょっと変わった性格だったこともあり、「いかにも観光地」なところへは行かないようにしようということになったのだ。

最終の特急へと僕らを運んでくれるはずだった電車のドアは、あと30mのところで無情にもぴたりとあわさった。そして、駆け寄る僕らの前をギギギギと音を立てて電車は転がりはじめる。僕らの存在に気づいてくれる駅員さんなどいるわけもなく、僕らの状況など誰も知っているわけがなく、抱えるしかない問題を背負わされて、まだどう対処しようかすら考えられず二人は呆然と立ち尽くした。

やがて問題は僕の頭へと怒涛のごとく流れ込んでくる。混乱で口が開いたままになっている僕の横で、これまた困り果てていると思っていた奈緒子が空を見上げたまま言った。

「ま、いっかぁ」

意味がわからなくて僕は余計に混乱してしまう。これのどこが「まぁいい」状況なのだろうか。

「てか、どうするんだよ。帰れなくなっちゃったじゃん。おばさんとかに旅行のこと、ばれちゃうよ」

僕は正直いって恐れていた。こんなことで奈緒子の両親からの信頼を失うなんてまっぴらだった。

「あはは、でもどうにかなる問題?もういいじゃん、私たち付き合って1年半だよ?子供でもあるまいしさ」

驚いた。奈緒子がそんなことを言い出すなんて考えてもいなかった。厳格な(奈緒子は否定するが)両親に育てられたものだから、奈緒子にとって両親の存在というのが非常に大きなものだと考えていた。

「いいの?」

それでも簡単にイエスとは言い切れない僕が少し不安そうに訊くと、奈緒子は笑いながらうなずいた。そして僕の心で何かが生まれた。それを決心と呼ぶのかどうかはわからないけれど、たぶん今日が僕らの新しいスタートの日になると思った。次の電車が来るまでは1時間もある。「なんか話でもしよう」そう言って僕は奈緒子の手を握りなおした。

Fin
その少年は、ちょっと変わった色をしたビンを手に持って何かに取り付かれたようにそのビンを見つめていた。ちょうど、青空に浮かぶ雲が流れていくかのようなマーブル。少年がビンを振るたび、雲模様はゆるやかに変化して、本当に雲が流れているかのようだった。

「ねぇ、そのビン、ちょっと見せてくれない?」

僕は少年に近寄ると、できるだけ優しい声を出して少年に話しかけた。少年は僕のほうにチラリと視線をよこすと、何も言わずにまた視線をビンに戻した。当ての外れてしまった僕は、少年の横で少年とともにそのビンを眺めた。透き通るような青色なのに、ビンの中は見えない。あるいは表面を流れていく白い斑模様が、中身のせいだというのだろうか。

「ねぇ…」

僕はもう一度、そっと声を出した。

「空、みたいだね」

少年はその言葉に反応を示したようには見えなかった。ただ、ビンを見つめ、何を考えているのか、僕には到底考えもつかなかった。

二人してビンを眺める空間に沈黙が訪れる。沈黙は他の何者も寄せ付けない種類のものなので、息を潜めて誰かが途切れさせてくれる瞬間を待っている。

「…母さんがいるんだ」

不意に口を開いた少年の声は思ったよりもずっと大人びていた。

「僕がこうやってもっていないと、母さんが消えてしまうから…」

行間を拾うことはできないけれど、つまりはビンは渡せないよ、ということらしい。僕は視線を、ビンから少年へと移した。少年は言葉を積み上げていく。

「…母さんは空になったんだ。僕を見守るよって言って、でも世界を包み込むことはできないからって。だから母さんはここにいるんだ」

少年はビンを優しく揺らした。雲模様が心地よさそうに揺れて、また少し外見を変える。ふと、雲の間から太陽が顔を出した。まぶしくて思わず眼を閉じる。

それは一瞬の出来事だった。少年は消え、僕の前には少年が持っていたものと同じ大きさのビンがひとつ転がっていた。でも明らかにそれとは異なるもの。雲模様はない、青色の、やや透き通ったビン。

僕は恐る恐るビンを手にとった。そして、少年がしていたように優しく揺らしてみる。

"…チリン"

ビンにはビー玉がひとつ入っていた。それが何を意味しているのかはわからない、けれど、誰かが意図的に入れたビー玉。揺らすたびに小さな音を立てる。まるで、子守唄を歌うかのような優しい音。僕はただ無心で、優しくビンを揺らした。ビー玉とビンの奏でる音色は、僕を通り抜けて高くなってゆく秋空へと吸い込まれていった。

Fin
旅に出ようと決めたのは、君がすごした場所へと行ってみたいと思ったから。君が写真で見せてくれた景色を、この眼で見てみたいと思ったから。でも、決してそんなことは君に伝えない。僕が君を好きなことは、誰にも言えない秘密だから。

『どこがオススメかって、もしかして、行くの?』

君はちょっと嬉しそうに僕に聞いてきた。僕は君からもらったメモを片手に、今こうして君の過ごした場所に降り立つ。

『駅から降りるとね、右手のほうに小さなパン屋さんがあるんだ。私ね、いつもここに友達とだべってたんだ』

君が過ごしたパン屋が、そのころと同じかどうかはわからないけれど、思ったよりもずっと綺麗な造りで、それなりに繁盛してるようだった。

僕の旅はメモにしたがって進んでいく。君が呼吸するたびに君の肺へと吸い込まれていった空気を、僕もこの肺いっぱいに吸い込みながら、僕らが今住む町よりもずっとずっと高い空の下、僕は歩を進める。

「この道をまっすぐ行ったら、左手に小さなギャラリーがあると思うんです」

タクシーに乗り込んでそう告げると、運転手さんはちょっと考えて

「あぁ、"Blue Sky Gallary"のことかな?あそこ、この3月でつぶれちゃったんだよ。数年前まではいろんなイベントしてたんだけどね」

と教えてくれた。メモ通りに旅は進まなくなったけれど、君への報告ごとがひとつできた。小さな幸せの積み重ねで出来上がるひとつの大きな幸せがあるとしたら、それはきっとこんな形をしてるんだろうと思う。

君に伝えたいことができた。君の過ごした町はたぶん君が過ごしたときと同じような時間の流れ方をしていた、と。ギャラリーはなくなっていて、そのあとには同じような雰囲気の雑貨屋ができていた、と。

帰りの電車が来るまでの時間は、出すことのない君への手紙を書いてみようと思う。

Fin
いつものように2人で夜ご飯を食べているとき、信次がふと口を開いた。

「たとえばさ、この魚って俺たちよりもずっと広い世界を旅してたんだよな」

「たとえばさ」と切り出すのは信次の癖だ。3年も一緒にいると、信次が「たとえばさ」と切り出したときの言葉に何の意味もないことくらい承知している。

「どうしたの、急に」

それでも私はいつも意味を聞くことにしている。肯定してもよいのだが、こういうときだいたい信次は何か考えていて、それを聞いて欲しいと思っているのだ。

「ほら、今はもう捕獲されて焼かれてこうやって食卓に並んでる魚だけど、実は俺らってこの魚よりもこの世界のこと知らないんじゃないかなって思ってね」

よく「不思議な人」と言われている信次が本領発揮している。芸術を好む人とは一概にこういうことを考えてしまうものなのだろうか。

「でも、私たちだってこの魚の知らないことたくさん知ってるんじゃないの?」

いつも最終的には「はいはい」と流す私だったが今日はちょっと絡んでみた。信次はちょっと考えたような仕草をして見せたあと、何かを思いついたのかぱっと明るい表情になって答えた。

「そうだよな、魚には魚しか知らないことがあるし、俺らには俺らしか知らないことがあるよな。魚には申し訳ないけど、俺の勝ちだ」

そう言うと信次は焼き魚に箸を入れた。こういう信次に何度も何度も挫折しそうになってきた私ではあったが、離れるたびに信次のそういうところを好きだったことを思い知らされてきたのだ。今はもう愛おしいと思う気持ちが二人の空間を支配している。

そこから話はまたなんでもない一日の報告へと繋がっていった。そんな二人の食卓。誰にもわからない絆があって、それを誰かにわかって欲しいとも思わない。会話が途切れたときにだけ存在を主張する時計の音ですら心地よく感じる。

それはたぶん、世界で信次しか持っていない魔法なんだと思う。

「ね、ご飯食べたら映画見ない? 昼間に借りておいたんだ」

目を細めて「いいよ」と笑う信次のことが好きだ。映画が終わったら、まっさきにキスをしようと思った。

Fin
誰にでも至福のときというのは存在すると思う。恋をした僕にとっては間違いなくその時間が至福のときであり、その至福のときを誰にも邪魔されたくないとばかり思っている。

彼女が廊下を歩く音を他の人の音と聞き分けることなど、僕にとっては朝飯前だ。軽やかな春風を思い起こさせるような音で彼女は教室の前へと近づいてくる。そういうとき決まって僕はわけもなく廊下へと出るのだ。そしてさも偶然であるかのようにちょっと驚いた顔をして見せて

「おぉ、偶然。おはよ」

と声をかけるのだ。僕の完璧な演技に誰も僕が彼女のことを好きだとは気づかないだろう。

「おはよ。なんかこの間も同じようなシチュエーションであったよね」

彼女は笑いながら何の悪気もなくそうこぼした。僕の顔が一瞬ひきつったのを見られたかどうかはわからないが僕はつとめてクールに装おうとした。だが次の言葉が出てこない。頭が真っ白になるとはきっとこんなことを指すのだ。

「は、はは…。偶然だよ。たぶん偶然」

口から出た言葉の怪しさは自分でも気づく。僕は「じゃ」と言ってそそくさと彼女の前から立ち去った。振り返ることなんでできやしないが彼女はたぶん、きょとんとした顔で僕のほうを見ているんだろう。小さく溜息をつきながら席に戻ろうとした僕に
友達の吉田が近づいてきて一言声をかけた。

「斉藤、今日は失敗だったな」

肩に手を回してニヤリと笑う吉田の顔を見た瞬間、僕は最悪の状況であることを瞬時に理解した。そしてこのまま突然消えてしまいたいと思った。

(人生最悪の日だな…)

冷や汗か脂汗かわからない汗は、僕の首筋を伝ってすぅっと背中へと落ちていった。

Fin
はじめまして!
響と申します。「きょう」と読みます。
いままでHPにて散々、短い言葉を書いてきたのですが
ここにきて、長い言葉=小説も書いてみたいと思うようになりました。
その実験施設としてこのブログが立ち上がりました。
拙い言葉ばかりだとは思いますが、お暇な方は目を通していただいて
コメントいただければ幸いです。
よろしくお願いします☆