いつものように2人で夜ご飯を食べているとき、信次がふと口を開いた。

「たとえばさ、この魚って俺たちよりもずっと広い世界を旅してたんだよな」

「たとえばさ」と切り出すのは信次の癖だ。3年も一緒にいると、信次が「たとえばさ」と切り出したときの言葉に何の意味もないことくらい承知している。

「どうしたの、急に」

それでも私はいつも意味を聞くことにしている。肯定してもよいのだが、こういうときだいたい信次は何か考えていて、それを聞いて欲しいと思っているのだ。

「ほら、今はもう捕獲されて焼かれてこうやって食卓に並んでる魚だけど、実は俺らってこの魚よりもこの世界のこと知らないんじゃないかなって思ってね」

よく「不思議な人」と言われている信次が本領発揮している。芸術を好む人とは一概にこういうことを考えてしまうものなのだろうか。

「でも、私たちだってこの魚の知らないことたくさん知ってるんじゃないの?」

いつも最終的には「はいはい」と流す私だったが今日はちょっと絡んでみた。信次はちょっと考えたような仕草をして見せたあと、何かを思いついたのかぱっと明るい表情になって答えた。

「そうだよな、魚には魚しか知らないことがあるし、俺らには俺らしか知らないことがあるよな。魚には申し訳ないけど、俺の勝ちだ」

そう言うと信次は焼き魚に箸を入れた。こういう信次に何度も何度も挫折しそうになってきた私ではあったが、離れるたびに信次のそういうところを好きだったことを思い知らされてきたのだ。今はもう愛おしいと思う気持ちが二人の空間を支配している。

そこから話はまたなんでもない一日の報告へと繋がっていった。そんな二人の食卓。誰にもわからない絆があって、それを誰かにわかって欲しいとも思わない。会話が途切れたときにだけ存在を主張する時計の音ですら心地よく感じる。

それはたぶん、世界で信次しか持っていない魔法なんだと思う。

「ね、ご飯食べたら映画見ない? 昼間に借りておいたんだ」

目を細めて「いいよ」と笑う信次のことが好きだ。映画が終わったら、まっさきにキスをしようと思った。

Fin