誰にでも至福のときというのは存在すると思う。恋をした僕にとっては間違いなくその時間が至福のときであり、その至福のときを誰にも邪魔されたくないとばかり思っている。

彼女が廊下を歩く音を他の人の音と聞き分けることなど、僕にとっては朝飯前だ。軽やかな春風を思い起こさせるような音で彼女は教室の前へと近づいてくる。そういうとき決まって僕はわけもなく廊下へと出るのだ。そしてさも偶然であるかのようにちょっと驚いた顔をして見せて

「おぉ、偶然。おはよ」

と声をかけるのだ。僕の完璧な演技に誰も僕が彼女のことを好きだとは気づかないだろう。

「おはよ。なんかこの間も同じようなシチュエーションであったよね」

彼女は笑いながら何の悪気もなくそうこぼした。僕の顔が一瞬ひきつったのを見られたかどうかはわからないが僕はつとめてクールに装おうとした。だが次の言葉が出てこない。頭が真っ白になるとはきっとこんなことを指すのだ。

「は、はは…。偶然だよ。たぶん偶然」

口から出た言葉の怪しさは自分でも気づく。僕は「じゃ」と言ってそそくさと彼女の前から立ち去った。振り返ることなんでできやしないが彼女はたぶん、きょとんとした顔で僕のほうを見ているんだろう。小さく溜息をつきながら席に戻ろうとした僕に
友達の吉田が近づいてきて一言声をかけた。

「斉藤、今日は失敗だったな」

肩に手を回してニヤリと笑う吉田の顔を見た瞬間、僕は最悪の状況であることを瞬時に理解した。そしてこのまま突然消えてしまいたいと思った。

(人生最悪の日だな…)

冷や汗か脂汗かわからない汗は、僕の首筋を伝ってすぅっと背中へと落ちていった。

Fin